エンターテイメントの肴化

なぜある種の人は「偽善だ」「つまらない」と叩きながらも24時間テレビをみるのか?それは、ある種の人たちの間で貴重な肴になるからなんだろうね。

踊る大捜査線が当たってるのも、つまりはそういうこと、と言えるかもしれない。DIMEは踊るを肴にし、DIME間でスーパーDIMEコミュニケーションを展開しているんだと思う。そこでは、作品の良し悪しよりもDIME的話題性が重要視されている、ということになる。

こうしてDIMEDIME層が馴れ合う限り、エンターテイメントの肴化は加速し続けるのかな。

「100匹目の猿」という有名な話と同じようにDIME(とDIME層)が食指を動かさざるを得なくなる臨界点というものがあって、そこを超えると幾何級数的、爆発的に「ユーザー」が増えるという形が存在すると思う。DIMEはこの仕組みを利用すべく、なんとかして人為的に臨界点までユーザーを増やそうとする(あからさまなオシャレCMとかティーザー広告とかで)のだけど、そこにたどりつけるかどうかは純粋に「内容の良さ」に負うところが大きくて、DIMEのコントロールがなかなか及ばない。しかし問題を複雑化しているのは続編の存在で、続編は内容の良さに関わらずユーザーを増殖(上乗せ)させる最良の一手で、つまりDIMEが続編を作らせている(あとDIMEが直接手を下す方法としては「賞」がある)。すると臨界点を迎えてユーザー数の爆発が起き、あとは放っておいても雪ダルマ式に金が金を生んでいくという仕組みなのだと思う。

臨界点を超えた時点でコアなファンはより先鋭化して作品への批判を徹底的に排除するようになって、逆に爆発後に作品に触れたDIME層やコアファンの先鋭化についていけなくなった離反ファンは「こんなのどこがいいの? ぷっ」とこきおろすようになる。ここにきてDIMEは「してやったり」という顔をするのだけど、大元をたどればそれはDIMEの力によるところではなくて、その作品が持っていた小さな輝きに気付いてじっくりと臨界点まで育てていったファンの力によるのだと思う。そして多くの場合続編はもう輝きを失った出がらしのような存在で、それだけ見てこきおろすDIME層と、過去にすがるコアファンの対決が滑稽で面白い。

あと俺が書いてる話はソースが何もなくて適当に面白おかしくネタとしてでっちあげてるときがほとんどなのだけどそういうときに限ってものすごい勢いでつっこまれるのでそろそろ不穏な発言は控えます。