DIME


というわけで積極的にDIMEについてアーダコーダいうのはこれでおしまいです。

俺にとってのインターネットが激しくつまらなくなるので、俺、上田の意見大反対(有田)。chaplinさんが本当にDIME論をおしまいにしたとしても、俺の中ではもうDIMEという概念抜きにはいろいろな物事を語ることが出来ないのでこれからも使いますけどやっぱり本家本元がやめてしまうのは寂しい限りで、いきなりこれは私信になりますけどファイルだけはせめてずっと存続させてくださいお願いします。あと個人的にはてな内におけるDIMEに関する話で残念だったことは、次のような言説がそこかしこでずっと出続けたことで、なんだかもぐら叩きゲームをやっているかのような徒労感に襲われたこともしばしばだった(id:senzaiさんのいう「DIME熱にうなされた人たち」というのははてな内におけるDIMEの流行で後追いした人、ということなので、DIME提唱者のchaplinさんを指してるわけではもちろんないのだけれど)。

はてなDIME熱にうなされた人たちがいちばんDIME的だったんじゃないの、という感想。

つまり、「DIMEを語る人こそがDIME」という命題は予めDIMEという概念が生まれた瞬間から内包されていたことで、俺も、刺身さんも、もちろんchaplinさんもそこらへんには自覚的で、決して第三者の立場から侮蔑的な意味でDIMEを語っていたわけではないのだけど、「マスコミと、マスコミに踊らされてる人たちをバカにしてる偉そうなやつら」という捉えられ方を一部でされてしまったために、そういう定義が浸透してしまって段々DIMEについて語ることが難しくなってしまったという事が言えると思う。架空の存在「DIME」と擬似的に対決してみたり、時には思い切りDIMEの策略に乗ってみたり、DIMEに操られるDIME層としての自分を卑下したり笑ったり見つめなおしたりする面白さがDIME論にはあって、そこらへんをこのように四の五の説明しないという潔さもまた面白かったのだけど、今説明してしまったので台無しです。

「○○が好きな<普通な>オレ」が好きな人たち
「ミーハーであらねばならぬ」という強迫観念、集団主義
劣等感苦しみ隊、オタクに憧れている事情通

これはいわゆるDIME層の定義として完璧だと思った。で、DIMEというのはこういう人たち(DIME層)を意図的に作り上げてるとされる架空の人物、団体、媒体、を総合した概念(象徴としては電通)、ということで多分間違いない。あと陰謀史観的にDIMEを想定するときの面白さが、どうもワセダという言葉にはない、と俺は思っていて、それはなぜなのかよくわからないのですけども、多分対象への愛があんまり感じられないからだと思った。あとDIMEDIME層、みたいな主従の関係がワセダにはないのもポイントかもしれないので、これからは「オタクとオタク発生装置」というところを考えていくと、オタクである自分が、いかにしてオタクになったのか(何者によってオタクにされてしまったのか)、という事が語れて面白いかもしれない。