コソコソ

マークアップ改変して引用してます。

「コソコソしゃべるような奴はそもそもモノを言うな」っていうのは、おれは暴論かなって思う。というのは、もともと普段しゃべってる会話なんて、コソコソしゃべってるようなもんだからだ。たとえば、おれがだれかと(ネット上じゃなく口頭で)あのサイトはどうこうという話をする場合、それは原理的にサイト管理者には伝わらないわけで、そういう意味ではコソコソしゃべってるということ。

ネットを異文化交流的に使いたい人がいて、そうあるべきだみたいな主張をする人もいて、その気持ちは分からないでもないけども、やはりネットのメインの使い方は、物理的に離れた場所にいる同文化をもつ人との交流だと思うんでねえ。おれの考えでは、異文化交流なんて一部の人をのぞけば、ほとんどの人にとって疲れるだけのつまんないシロモノなんじゃないかと思う

自分にとても近い意見だと思った(強調部分特に)。前に「辿れないリファラ」という題でちょっと書いたことがあるのだけど、リンク元は隠すならきっちり隠してもらいたいという希望があって、ime.nuとかパスワード制限とか中途半端なリンク元隠しは逆に気になってしょうがないので本当なんとかしてほしい感じ(手間を惜しまなければime.nuはライブスレッド検索で発見することが可能なのだけど)。きっちりと(?)コソコソしゃべるやつは俺の目にとまらないのでどんどん勝手にやってくれたまえ、で、逆に堂々と悪口を書かれるのも「それを見ることができる」という意味においては全然OKで、俺にとって最悪なのは何か書かれてるっぽいのだけどそれを見ることが出来ないという状態。

あと、悪口を言わない人というのは悪感情にとらわれてる自分が嫌いで、そういう気分になったときにうまく意識をスライドさせて別のことを考えることができる人の事で、悪口を言う人というのは悪感情に没頭してしまう人の事だと俺は思っていて、要するにどっちも悪感情を抱いたということに関しては同じなので、どっちがいいとか悪いとかの問題じゃなくて処世術の違いだと思っている。そして堂々と名指しで悪口(誹謗中傷と言い換えてもいい)を言う(言われる)事はスマートさの欠片もないという意味において、俺にとってはコソコソやる(やられる)ことよりもうんざり度が高いという結論。悪口じゃなくても、異文化交流的な「議論」もうんざりするのでのらりくらりと身をかわして土俵にあがらないという処世術を俺は採用してます。というか何が言いたかったのか書いてるうちに忘れた。論旨変。あと「書いてる」って書くとハーヴェイ・カイテルを思い出す。バカ。