モヒカン雑感

モヒカン遊びの盛り上がり方と、マジレス軍流入のタイミングが、DIME遊びの時のそれとほとんど同じでデジャヴがすごい。あと、何か楽しげなことをやっている小規模グループを見つけると、即座に「俺(あたし)は疎外されている! 仲間に入れてもらっていない!」という理不尽な印象をいだいて、片っ端からそういう場所にゲロを吐きかけていくことを生業としている人たちがいて、そういう人の存在を炙り出す装置としてこれらの遊びは働いている。DIME遊びにゲロを吐いていた人は間違いなくモヒカン遊びにもゲロを吐きかけています。要するに自分のアンテナの及ぶ範囲外で楽しい遊びが始まることはまかりならんという、わけわからん思想の持ち主。そういう思想を持っていることが心の奥深い部分に隠蔽されていて、本人自身も気付いていない場合が多い。なので、「バッカじゃねえの?」というスノッブシステムが、この思想の代替装置として働くことになる。この中二思想と、マジレス軍の見分けがつきにくいことも戦局を複雑にしている。マジレス軍というのは情報量の増加を追いきれなくて、手頃なキーワードを断片的に理解することによって生まれる。あるいはなんとなく流行っているみたいだからコミットしてみたいというカジュアルな欲求によって、遊びの体系を全く理解していないままキーワードだけを操ろうとするために生まれる。魅力的な概念をキーワード化する遊びは常にこの中二思想とマジレス軍との戦いを余儀なくされる。ドクデスみたいなイベントものは中二思想と戦うだけなのだけど。あといつも思うのだけど遊びのルール自体が批判されるというのは一体どういうことなのか。たとえばはてなという遊びが頻繁に批判を受けるわけだけど、そういう批判を加える人というのは、面白い遊びのルールを変革して、その遊びをつまらなくしたい、ということなのだろうか、と思った。たとえば映画百選の面白さはルールにあったわけだけど、マンツーマンのバトン制は選民思想につながるからやめてしまえ、とルールの変革を迫った人がかつていて、それでは遊びが成立しないわけですよ。自分が今つまらない状態なので、全人類つまらない状態でいてほしい、ということならば、短冊に毛筆でその旨書いて笹につるしておけばいいと思う。