ゼルダの伝説トワイライトプリンセスは神ゲーだったのか否か

とりあえずクリアしたんです。といってもまだやってないことはいくつかあって、コンプ的なクリアではないのですけども。この状態で思うことを。

ゼルダシリーズの制作は伝統的にストーリー後付け方式だということが、制作側から幾度となく話に出ていて、それはゲームの作り方として当然あるべき姿だと俺自身は思っている。計算しつくされたレベルデザインがあって、「多彩」と一言で言うにはあまりに言葉足らずな、異常とも言えるほどの数のアクション仕様があって、複雑で手強い敵アルゴリズムがあって、そこに絶妙なバランスの謎解きが配置してあって、もうそれだけで神ゲーと呼ばれるに値するとも思う。正直、ストーリーなんてあってもなくても関係ないと言い切りたい。だけど。だけどなんです! マリオだったらなくてもいい。でもゼルダにはぐっとくるストーリーが欲しいんです! なんか、「ああ、ここをこうしたかったから、こういう後付けストーリーで整合性を取っているのだな」とか思わせてほしくないんです! 没入したいんです!

思えば『神々のトライフォース』と『時のオカリナ』は本物の奇跡だったとしか言いようがない。あれだけ膨大に広がっている個々のゲーム要素を後付けストーリーで無理矢理つなげていったら、ストーリーは破綻するのが普通です。むしろしない方がおかしい。伏線は回収されず、大風呂敷は畳まれず、ご都合主義のキャラクターが唐突に説明セリフを並べ立てるのが精一杯だ。にもかかわらず、この2つの神ゲーはまるでストーリーありきで作られたかのように破綻なく、いや破綻なくなんて生ぬるいもんじゃないわ、小さい頃に観て今でもずっと心に残っている映画のように、俺の血肉とさえなっているほどの素晴らしい物語を内に含んでいる。物語の半分は、プレイヤーそれぞれがゲーム内で経験する、その人だけの物語となるわけですけど。そこには紛れもなく「世界」が存在している。

たとえば『時のオカリナ』の子供リンクと大人リンクとの往き来というのは、ストーリーからの要請ではなくて、ゲームとして面白いモノを作ろうとしたときに生まれた仕様ですよね。同様に、トワプリに出てくるミドナというキャラも、ストーリーを面白くするために生まれたわけじゃなくて、「狼リンクの後ろ姿だけの絵では面白くないから、何か人型のキャラを狼に乗せた方がいい。そうすればアクションも多彩になる」というゲームとしての面白さのために作られたキャラなわけです。二つの出発点は同じだ。であるにも関わらず、子供→大人の仕様はドラマチックで感動的なストーリーを生みだすことに成功し、ミドナ狂言回しとしてしか機能していない。少なくとも俺にはそのように思える。もうこれは奇跡に頼る以外にない領域なのでは、と思うんです。

トワプリは本当に面白いゲームであります。今これ以上に面白いアクションゲームを作れる人たちは世界中探してもいないと思う。その人たちであっても、「面白いゲーム」と「心にずっと残るストーリー」を高次元で融合させるには、奇跡に頼るしかない。神ゲーへの道は、かくも険しく厳しいのだと思った。