ゲームと中二病

どっちにせよ「体験の共有」こそが第一義で(たぶん突き詰めていけば彼らは「それがゲームである必要」を切り捨てられる)、「自分の原体験に基づいた世界観で周囲を洗脳しなければしあわせになれない」ことに強迫されているがゆえに彼らの声は大きいのだが、そういう欲望に則ったアジテーションは「ゲームへの欲望」論に意味ブレを招くので(それこそ「非モテ」と「オタクと恋愛」のように、外からみればあまり区別がつかない似たアングル)、ゲームのことだけが大好きすぎる我々ゲーオタからしてみれば迷惑な存在なんだけど(「彼らの原体験がゲームであったこと」が我々の不幸)、まあそういう手合いも社会には必要というか、「界隈外に対する不要度」でいえば我々のほうが高いのだから、こればかりは致し方あるまい。

突き詰めていっても「それがゲームである必要」はどこまでいってもある。ゲームへの欲望論を純粋に押し進めることが結果的に自分の首を絞めることになるということがなんでわからないんですかね。中二病をこじらせすぎだと思う。ゲームが先鋭化して産業として衰退していくことを危惧する俺からしてみれば、「どうなろうと自分たちにとって面白いゲームさえ出てくれればいい」っていうゲーオタは迷惑な存在なのだけど(彼らが中二病に罹患しやすい人たちだったことが俺の不幸)、そういう手合いが界隈外に対する不要度を正しく認識してくれてることだけが救いです。産業としてキャパを広げることがゲーオタにとって不利益になると心配しているのかもしれませんけども、それは杞憂です。ゲーオタ向きのゲームはキャパの大きさに関わらず出続ける。というか出続けてくれなければ俺だって困る。

あと原体験というにはあまりに歳をとりすぎていた人たちを指しているように思うのだけど、そこらへんどうなのだろう。ファミコン誕生以前にアーケードでの多様なゲーム体験を通過した人たちの言説なのだけど。少なくとも俺はそうだ。